ストレスフリーを目指すブログ

穏やかに健やかに暮らしたい

 本サイトはプロモーションが含まれています

メンタルを大事にしようと思った理由

f:id:u-tantantan:20220405104820j:plain

メンタルを大事にしようと思い始めたのは下の兄が鬱病になり東京から故郷の実家に帰ってきたことがきっかけでした。下の兄、と書いたのは上の兄がいるからです。2歳年上の兄は二卵性双生児、双子です。神童と言われた優秀な兄と少し変わり者の弟。下の兄は小さいころから問題児でした。今でいうコミュ症なのでしょうか(母は自閉症だと言っていました)小さいの頃の写真を見ると母に抱きかかえられているのはいつもきまって下の兄でした。4人兄弟の末っ子の私は4歳上の姉が面倒を見てくれていました。

下の兄は少しでも目を離すと何かが起こる(いなくなる)ので四六時中注意していないとダメな子だったらしいです。写真の中の下の兄はイヤイヤと体を反らせてなんとか母の腕から逃げ出さんばかりの姿勢ばかりです。私が母に怒れれていると、どこからともなく飛んできて嬉しそうにニタニタ眺めていたり、私に対しての異常な対抗心が半端ないことも、ちょっとどこか変なのかも、と子供ながら感じていたと思います。姉と兄には敵わないけど、私だけには負けられないとでも思っていたのでしょう。お転婆だった私と二人の兄との喧嘩はいつも手加減なしの取っ組み合いで血まみれでした。

中学に入学した時、私はちょっとした有名人でした。「あの子だよ」多くの人が私を見に来るのです。先生まで「あなたが、ね」と確認しにくるほどでした。その時は何が起こっているか分からなかったのですが、上の兄の妹が入学してきたからどんな子か確かめに来たらしいです。”妹”というだけでこれだけ注目されるということは、下の兄も同様に上の兄と比較されていたのだと思います。「お兄ちゃんは優秀なのに弟は…」という感じです。私の場合は「お兄ちゃんの妹でもあるけど弟くんの妹でもあるから…」という微妙な立ち位置でした。先生を含め多くの人達は何の面白みもない平凡な私に期待外れだったようで「できない下の兄の妹」というレッテルを貼り納得しているようでした。いい迷惑です。正真正銘の二人の兄の妹だわ、いったい彼らは私に何を求めていたのでしょう?世間では出来の良い長女長男と出来の悪い次男次女という縮図になっていました。私が下の兄だったらグレて非行に走ること間違いなしです。

中学の時、私は二人の兄が所属する吹奏楽部へ入部しました。上の兄が部長でした。上の兄は感受性が強く繊細な心の持ち主で、お風呂で”防人の歌”を歌いながら号泣したり、下校時には歩きながら空に向かって無心に指揮を振ったり(頭の中でオーケストラが流れていたのでしょう)とにかく凡人には理解できない行動をとることで有名でした。バカと天才は紙一重、とはよく言ったもので、傍から見ると結構ヤバイ人でした。

小学生の頃、下の兄は悪い友達とツルむことが多くなっていました。でも、上の兄が必ず下の兄を連れ戻していました。兄が常に弟を守っていたのです。下の兄が上の兄と比較されながらもイジけることなくグレることなく真っ当な大人になれたのは上の兄の力が大きかったのでは、と思います。

中学に入り二人の兄がほとんどの時間を部活に費やしたことが、ことのほか良い結果に繋がったのだと思います。もし、下の兄が部活に入っていなければ道を踏み外していたかも知れません。人生の中でも中学3年間の部活生活は充実した楽しい時間でした。顧問の先生は私にとって恩師であり今でも心の支えになっています。素晴らしい先生に出会えたことを幸運に思います。

少し変わったところがある下の兄でしたが、大手ゼネコン会社に就職して順調な人生を歩んでいました。が、ある日事件が起こります。父が下の兄を勘当したというのです。会社を辞める決断を兄が下したときに、父が会社を辞めるなら二度と敷居を跨ぐな、と言ったらしいのです。

兄はその時すでに鬱病を発症していたようですが、その事実を親には隠していたそうです。姉だけには相談していたらしく、姉からすべてを聞いた父は全てを受け入れ兄を家に招き入れました。当時私は実家暮らしでしたので兄が戻ることに抵抗があり尚且つ鬱病への理解も全然できなかったので毎日がいがみ合いでした。

毎日家にいて何もしない兄への不満が募り私はストレスを抱えるようになりました。兄を見ているだけで不愉快だったのです。基本宿泊が多い添乗員だったので、独り暮らしをするのはお金の無駄という理由から実家暮らしをしていましたが、兄が越してきてからというもの、それでも家を出たいと思うようになりました。父は兄の病気が改善することを期待して一年待つよう言いましたが思惑通りにはいかず兄の症状は悪化の一途をたどりました。

父もようやく兄の鬱病が深刻なことに気づき始めたようでした。精神疾患の病を抱えた親戚(私の従兄)がいたのですが、普段会うことはないのではっきり言って精神疾患は他人事でした。ですが兄が鬱病になったことで急に身近な問題になったのです。

鬱なんてただの怠け病じゃん、仕事したくないだけじゃん、甘えてるだけじゃん、鬱なんて病気じゃない!そんな風に考えることしか出来ませんでした。兄の存在が家族の恥に思えてなりませんでした。でもそれを父は真向から否定し兄を擁護しました。それでも食い下がる私に最後は「出ていきなさい」と突き放したのです。「こっちが病気になるわ!」私も意地を張って家を出る決心をしました。

父は現役時代、更生保護の仕事をしており定年後は祖母が経営していた知的障害施設に勤めるなどある程度問題のある人達を長年相手にしていたこともあり弱者に寄り添う人で鬱病に対しての理解も早かったです。やっぱり心の大きな人だと自分の親ながら敬服します。兄の苦悩を理解し、鬱病患者との付き合い方を勉強し実践する。私はまだまだ鬱病に対しても兄に対しても理解しようともしませんでした。

異常な雰囲気の緊張の中過ごす毎日は苦痛で耐え難いものでした。仕事から帰ってきてリラックスしようと思っても兄と会いたくない一心でいちいち兄の所在を確認しながら移動する煩わしさ。なんで私が我慢しなきゃならないの!もう限界でした。家に帰ることが苦痛でした。全部兄貴のせいだ。そう思っていました。

やっと兄から解放され一人暮らしを始めてから、ただの仕事上の関係でしかなかった夫との距離が一気に縮むきっかけになったような気がします。兄が鬱にならず東京にいて私がぬくぬくと実家暮らしを満喫しているようだったら、もしかしたら夫との進展はなかったかも知れないと思うと何だか不思議です。

兄が病気になって帰ってきたことと夫と結婚できたことに因果関係があるとしたら兄に感謝するべきだろうか、などと考えてしまいます。

結婚してしばらくの間使用した白物家電は一人暮らしを始める時に購入したものです。結婚してからようやく気持ちの余裕ができたのだと思います。兄について、鬱について考えるようになりました。兄が抱えたストレス、どうして鬱になってしまったのか、これから家族がどう接するべきか、何をしてあげれるか、家族と話し合いました。

鬱の人に対して絶対言ってはいけない言葉、それは「頑張れ」です。頑張った結果、鬱になったのです。家族に出来ることは理解し寄り添い見守ることしかありません。兄の場合病院で処方された大量の薬でとにかく日中昏々と眠っていることが多かったです。眠らせることで思考を止めさせることが目的なのだと思います。

自分に余裕がない自分のことで精一杯なときは鬱になる危険サインです。父は冷静に対処できていたのでしょう。私までも精神を病んでしまいそうな危うさをいち早く察知し兄と一緒に生活することはお互いにとって良くないことだと分かったのだと思います。兄から学んだことは適当に不真面目くらいが丁度いいということです。真面目で優しい人ほど鬱になるリスクが高いのではないかと思います。

離れて冷静になって初めて分かる兄の苦悩、兄はただただ優しい人間なのです。姉から聞いた話だと、現場監督になり外国人労働者の過酷すぎる状況を目の当たりにし何とか改善しようとしたものの自分の無力感に苛まれてメンタルを病んだ、とのことでした。

自分が病んでしまうほど弱い者の立場になって孤軍奮闘するような人間を私は一瞬でも恥だと思ってしまったのです。私こそが恥ずべき人間です。そんな兄が徐々に社会復帰し回復の兆しが見え始めた頃、突然の交通事故で亡くなってしまいました。

神様は残酷なことをします。兄は幸せだったのでしょうか。遺品整理で見つけた写真の中の兄を見ると楽しい時期もあったことが確信できてホッとします。ぶっちゃけ私は兄の何も知りません。姉には何でも相談していたようですが私と話すことは殆どありませんでした。生きている時に話すことはできなかったけど、今は話したい、もっと話をすれば良かったと強く後悔しています。

お読みいただきありがとうございました。