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祖母と過ごした高校3年間の話

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私は高校3年間を親元を離れ(母方の)祖母と大学生の姉と3人で過ごしました。

中学まで東京で暮らしていましたが、翌年から父の転勤が京都に2年間決まっていたため知人がいない京都の高校へ進学するよりも母方の祖母に預けようという結論に至ったようです。勉強嫌いだった私は高校なんてどこでもいい、と思っていたので言われるまま母方の故郷に移り住んだわけです。紆余曲折あり社会人デビューは東京でしたが3年で夢破れまた故郷に戻ってきて現在に至ります。

子供が小さければ父だけ単身赴任することも考えたのでしょうが、2歳上の双子の兄は学生寮に入り、残る問題は私だけだったので、祖母へ預けることが一番安心だと思ったのでしょう。大学生の姉が祖母と暮らしていたことも大きな要因でした。

祖母の写真をしみじみ眺めて感じることは、母が祖母に似てきたということです。親子だから当然なのですが、頬っぺたがブルドックのように垂れてきたところなどは生き写しです。それもそのはず、写真の祖母と母が同じ年になるのです。今月まもなく誕生日を迎える母は82才になります。

祖母と過ごした高校3年間を思い出します。当時の祖母は70代前半だったと思います。まだまだ元気で私と張り合っていました。姉は彼氏ができて大学ライフを満喫しており不在にしていることが多く、ほぼ祖母と私の二人で過ごしていました。やりたい放題我儘し放題の反抗期だった私はかなり苦労をかけたと思います。とにかく生意気な盛りで手のつけようのない3年間だったような気がします。悪態ついたり、喧嘩したり、怒鳴ったり、とにかく祖母に対する態度が失礼極まりない。何度クソババア呼ばわりしたことか。穴があったら入りたい。祖母と私のやり取りを見ていた伯母が、まるでコントを見ているみたい、と爆笑するくらいお互い遠慮なく言いたい放題なじり合いをしていました。コントではなく真剣なバトルだったのですが、伯母からすればそれがコントに見えたのでしょう。

祖母も”孫に負けていられない”と思っていたのか高校生相手に引くことなく対等に張り合っていました。「醤油ないね」「いらない」よいしょ、とわざとらしく立つ素振りの祖母「取ってきて欲しいなら頼めばいいじゃん!」「別にいいよ」ゆっくり動く祖母。私は仕方なく醤油を取りに立つが、ちッと舌打ち。なんて孫だ、酷すぎる。ジャイアンツファンの祖母の前で、ジャイアンツが負けると「ざまーみろ」と一言。なんて孫だ、最悪だ。今頃反省しても謝ることができません。酷いこと沢山言ったし、できることなら全てを撤回したいくらいです。

姉から私が高校を卒業して家を去った後、祖母が抜け殻のようにガックリとしていて「居なくなって寂しい」と言ってくれたことを聞きました。私の存在が人生の張に合いになっていたのかな、と思うと少し救われたような気もしました。生意気な孫が居なくなって清々しているだろうな、と思っていたので寂しいと言ってくれたことが意外でした。残った姉が「あんたの存在が大きすぎて私の存在意義がない」とボヤいていたのを思い出します。今思えば親戚関係の中でも異色の出来の悪さ加減が新鮮で、逆に可愛かったのかも知れません。

姉は祖母に対して優等生で優しい礼儀正しい孫だったと自負していますが、確かに私みたいに暴言は吐かない代わりに心配ばかりかけていました。本業である勉強をほったらかし留年の危機にも屈せず恋にうつつを抜かす、朝帰りを頻繁に繰り返す不良孫だったので、祖母が匙を投げたことがありました。そのことを姉に話すと面目ない、と首を垂れます。誰しもが経験する若気の至り、です。

「大学在学中に妊娠なんてしたら預かっている身として申し訳がたたない」あまりにもはっちゃけ過ぎている姉に手を焼いて困り果てた祖母は父へ注進したのだ。「何が起こっても責任は私(父)にあります。迷惑かけてすみません」と祖母に頭を下げて安心させた父も凄い人ですが、浮ついた不良大学生と反抗期盛りの生意気高校生、問題児二人の面倒を見るという祖母も負けず劣らずのバイタリティ溢れた凄い人だと思います。

成長した今、母から当時の話を聞くようになり、祖母がいかに大変だったかを知りました。私だったら私みたいなクソ孫絶対嫌です。祖母にしてきたことを後悔し反省しているのにまた同じことを母に繰り返している私はクソ娘です。最近母がある新聞記事を見てしみじみ言いました。

母「5年日記を買ってきてと頼んだ時あんた、まだ5年も生きるの?って言ったよね…」

私「マジで…?」

驚愕です。新聞記事の内容は、5年日記を頼まれた息子が10年日記を買ってきて「5年と言わず長生きして欲しい」という孝行息子の話でした。あまりの違いに胸が痛みます。自分がそんな酷いこと言ったなんてにわかに信じがたいですが、私だったら本当に言ってそうで怖い。否、実際に言ったのだろう。母だから許してもらえたが、これを友達にやったらドン引きされて友達としてのお付き合いは終わるだろう。

考えなしに言った言葉が人を傷付ける、言葉は一度発したら取り消すことができない、日常的にその発言が許されることなのか?考えてから言うように心がけてはいるものの、相手が家族だとどうしても遠慮なく言ってしまう。親しき中にも礼儀あり、肝に銘じて気を付けたいと思います。祖母を悲しませたように母を悲しませてはいけない。歴史は繰り返さない!人は成長するのだ!同じ過ちは繰り返さないようにしなくては。

祖母は晩年病院で過ごしたのですが、医者から命の宣告を受けてから数ヶ月頑張って生きました。看取ったのは母一人でしたが、最後は眠るように亡くなったそうです。入院してからは喉に詰まらせるから、との理由で食事はできませんでしたが、「餡子が食べたい」と最後まで訴えていた祖母に食べさせてあげられなかったことが唯一の後悔です。医者に見つかっても、喉に詰まらせても、最後の願いを叶えてあげればよかった。

母と祖母が似てきたように、母と私も似てきたし、そして驚くことに最近鏡の中の自分が姉か?と勘違いしてしまうほどそっくりになってきました。若いころは全然違う顔だと思っていたのに不思議です。年齢を重ねるごとに段々似てきたように感じます。

最近の母の老人性聞かん坊化現象を見て、私も将来ああいう風になるのかしら?とゲンナリしながらも、それでもやっぱり今まで受けてきた愛情を想うとありがたく感謝の気持ちでいっぱいです。当時の祖母と比べると元気に見える母ですが弱っているのは確かです。生きてくれている、それだけで十分です。好きなことを好きな時に好きなだけ残りの人生楽しんでくれればいい、そう思います。願うは苦しまずにぴんぴんころりで逝ければ最高なのですけど。女性の平均寿命までは生きる気満々なので、とりあえず少なくてもあと5年は安泰そうですが、次回日記を頼まれたら今度こそ10年日記を買って「まだまだ長生きしてね」と渡したいと思います。

お読みいただきありがとうございました。