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人としての倫理観を問われる話

巷では”老人は退散すべき”とか”集団自決”とかいうとんでもない言葉が飛び交っていますが、倫理観の欠如だと思わざるを得ません。動けなくなって寝たきりの老人が”生きたい”と思って生きている人がどれくらいいるでしょうか。

”死にたい”と言葉に発することすらできない人もいると思うのです。死にたくても自分の力ではどうしようもない人もいると思うのです。だからそんな風になる前にある程度の年齢になったら自分で生死を死に方を選択できる世の中になればいい、と常々私は思っているわけです。

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老人が自動的にいなくなるシステムを作るにはどうすればいいですか?って質問する子供を育てた家族ってどんな?って思っちゃいます。君には祖父母がいないのか?と問いたい。自分の祖父母に「消えてくれ」と言うのでしょうか?自分が大人になった時、親に「いなくなれ」と言うのでしょうか?

それに対して成田さんが二つの案を出しました。どちらも映画が参考だそうです。

”寿命を迎えると埋め込まれた装置か稼働してみな等しく同年齢で死ぬシステム”これは【TIME】なのかな…?ボディクロックを埋め込まれ寿命と戦うSF映画、もう一つは、”ある集落では一定の年齢に達すると崖から飛び降りる風習がある”これは【ミッドサマー】という胸糞ホラー映画だと思われます。そういった社会を作るのもアリかな、とでも言いたげな答え。

ミッドサマー(字幕版)

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映画って基本娯楽だと思っているのですが、私の場合、映画から色々インスピレーションを貰って自分の思想にしたり憧れになることが多かったりします。反対に、映画を見て、この世界感はない、とか、これはダメだ、と思うこともあります。

例えば、【私を離さないで】という映画。イシグロさんの小説は未読ですが、日本でもドラマ化されましたし、イギリスでも映画化されているので内容は省きます。トロッコ問題、まさしく人としての”倫理”を問うものだと私は思います。

人を救うために作られた人間には”心”はないのか?人間の魂があるかを問うギャラリーで出された答えは”NO"、猶予などない。運命は変えることはできないのです。

”クローン”の是非。人を救うために作られたクローン人間と救われる側の人間(オリジナル)の何が違うのか?臓器を提供するために作られる命があっていいのか?そんなことが許されるのか?神の領域に踏み込んではいないだろうか。

映画の中の世界と現実の世界、この境界線が分からない人たちが一定数いることに恐怖を感じます。ボディクロックをいいかも、と思ってしまう、はたまた崖から飛び降りる慣習があるホラーな村を作るのもいいかも、と思ってしまう成田さんが怖い。

母が最近父の介護ストレスで疲弊しているのを身に染みて感じます。「トルコ地震や戦争で苦しんでいる人に比べたら私の大変さなんて比べものにならないよね」母が私に言うのです。

私の経験上、自分より大変な状況下にある人と自分を比較して考えてしまう精神状態は結構ストレスの限界が近い時のように感じます。「あの人よりマシ、あの人よりかはまだ恵まれている…」絶望の淵にいたドン底だった若い頃を思い出してしまいました。

一方介護されている父は自由で幸せそうです。体は弱っているし認知症の症状もありますが、それでも施設に入ることなく自宅で過ごせている”制限のない自由”に喜びを感じているように見えます。父と母は誰にも迷惑かけず静かに暮らしているだけです。両親の存在が誰かの負担になっているとしたら年金受給?

年金受給している人間は退散すべき、税金を払わない高齢者は退散すべき、そんな発想しかできない人がいると思うと残念でしかたありません。生きたいと思っている高齢者もいるし、生きて欲しいと願う家族がいるのです。

死にたいと願う老人もいると思います。高校3年間一緒に暮らした祖母は全身癌で、痛さを訴え続け最後はモルヒネ投与され意識朦朧、食べることも喋ることもできず病院で亡くなりました。祖母は死にたい、とも生きたいともいえる状況ではありませんでした。たまに意識があるときに「餡子が食べたい」と訴えていたそうです。

好きなものも食べれない、寝たきり、死にたいと願っても今の日本はそれが許されない。死にたくても自分の力では死ねない。苦しみから解放されたい、殺して、と願っても、それを実行すると殺人になってしまう。

介護をされる側、する側、両方が幸せになれるのであれば、尊厳死安楽死を選択できる世界を早く実現すればいい。介護される側(父)よりする側(母)のほうが断然負担は大きい。近くで老々介護の両親を見ているので分かります。最近では母がストレスと疲労から父より先に逝ってしまうのではないか、と心配してしまいます。

母は父を見送るまでは何としても頑張るという気力だけで生きているように見えます。それがいままで受けてきた恩返し、母にそう思わせる父も凄いですが、父を施設には送りたくないという母の気持ちは十分理解できます。ギリギリのところで踏ん張る母の負担軽減のために私が今できることは週一度の訪問と見守り、そして父と母の話を聞くことだと思っています。

とにかく高齢の両親を持つ娘としては”老人は退散すべき”という発言は看過できないことです。これから自分も高齢者になっていきますしね…。”老人が自動的にいなくなるシステムを作り出したい”発言の少年にも”老い”は必ずやってきます。

政治家には定年を設けて、子供が選挙権を持たないのと同じで高齢者の選挙権を引き上げる、というのでどうかな、と。高齢者が選挙を牛耳っている間は高齢者有利の政策がとり続けられるし、何も変わらないような気がします。そもそもは若者が投票に行かないことが悪いのであって若者の投票率が上がれば違う結果になるのでしょうけど…。

若者の絶対数が少ないから数的不利は変わらないかも、それに若い人が不思議と保守的みたいなので、投票率が上がってもどっちにしろ自民党有利は変わらないのかな?それでも、やっぱり政治に無関心でいることはよろしくないし、投票すること政治に参加することに意味があると思います。

選挙に行く意味が分からん、休日に選挙に行くなんて時間の無駄、という冷めた目で見ている若者が多くいるのだと思います。自分も初めて選挙権を行使したのは20代後半だったと記憶しています。いつの時代も同じで、ある程度の年齢に達しないと選挙の重大さに気づかないのだと思います。

ほとんどの高齢者は若者の迷惑にならないよう細々と暮らしたいだけだと思うのです。個人としては両親より先に死ぬのは親不孝なので死ぬ順番は守りたいと思っていますが、長く生きたいとも思っていませんし…。

色々な意味で倫理感が問われていると思います。”クローンには魂がない”という結論を下すような人間にはなりたくありません。

お読みいただきありがとうございました。