ストレスフリーを目指すブログ

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安楽死と尊厳死を考える話

高齢の両親のため、インフルエンザワクチンを接種してほしいとの姉から依頼され、かかりつけ医へ電話したのですが、11月中の予約はすでにいっぱいで一番早くても12月始め、と言われました。11月の下旬にコロナオミクロン対応のワクチン接種(4回目)、その一週間後にインフルワクチン接種です。

春に倒れ入院中だった夫の叔父が病院から老人ホームに移ったそうです。面会した義母曰く、寝たきり状態から回復し、今はベットから出て車いすで生活しているそうです。食欲もあり元気だった、とのことです。

70代中盤の叔父は今年が免許更新の年だったので、免許は期限切れとなり運転できなくなりました。ということで運転手を失った車は売却することになりました。親戚の誰かが譲り受けることも検討しましたが、誰も欲しいと言う人がいなかったので、売却やむを得ず、です。

一年前の今頃買った新車の走行距離は1000キロにも達していません。正直勿体ない。自分が乗り換えてもいいですが、今乗っている車と天秤にかけたとき、どっちがいい?と聞かれると、今乗っている車を手放すのは惜しいのです。

高校生の甥っ子が春になったら免許取得するらしいので、それまで置いておいて彼が免許を取ったら乗れば?と思ったのですが、直接甥っ子に聞く前に、義母が”いらない”と断ったのでそれ以上どうすることもできませんでした。

ぶっちゃけ、私は義母が勝手に断っているだけで、関わると面倒だから聞いてすらいないのではないか?と思っています。とにかく同居している長男夫婦との関係が悪いので厄介なのです。価値があるうちに売却して、の一点張りです。

叔父の車は初心者にとっては運転しやすい車だと思うのですが、難しいものです。車は走れば見た目や装備なんてどうだって構わないと思うのは私だけでしょうか…。車好きには譲れない”何か”こだわりがあるのでしょう。夫の親戚関係は揃って車好き。やはり育った環境の違いなのでしょう。

代理売却を頼まれたので、先週末に委任状やら印鑑証明やら代理で売却するために必要な書類を貰いに行ってきました。義母は車の事は分からないからお願い、と言いますが、本来だったら同居している長男に任せればいいと思ってしまいます。

ただ放置していてもダメにするだけです。二束三文で新車購入時の半額くらいにしかならないなら甥っ子に乗ってもらってそのまま所有し続ける選択もありだと思うのです。甥っ子が見た目重視で”こんな車嫌だ”って言えば無理強いはできませんが、案外”タダなら欲しい”と言うかもしれないですね。義母には内緒で義姉にLINEで聞いてみようかしら。

やはり、同居の家族を差し置いて私たちがでしゃばるのは良くないと思うのです。義兄としても、何も知らされずに売却されるより、知っている上で売却される方が嫌な気分にならないと思うのですが、夫の考えは私と違うようです。後から「売却するなんて聞いてないよ、欲しかったのに」って言われても困りますし。話は共有したほうがいいと私は思います。

同居しているのにいつも秘密にされて自分は仲間に入れず蚊帳の外だ、と嘆く義母自ら話を共有しないで車の売却を進めているのですから、自分だけ被害者面するのも、って思っちゃいます。話に入りたいなら自らも何でも相談すべきだと思いますし、その結果拒絶されたらこちらに相談するのは分かりますが、まずは同居の家族に相談するのが筋だと思うのです。

祖母の遺産が今月末に入るらしいのですが、そのお金は叔父の老人ホーム費用に充てるそうです。祖母が長男の為に貯めていたお金です。義母が想像していた予想以上に祖母は貯えていたようで老人ホーム数年くらいは大丈夫なようで安心しました。あとは何年生きるか、によってまた状況は変わっていくのでしょう。

いつ死ぬか、何歳まで生きるか?それが分かれば苦労しないのでしょうけど。祖母のように100才まで生きるとしたら、あと25年もあります。考えると怖いです。長くて数年と思っているようで、予想以上に長生きして祖母のお金が尽きたら今度は家を売ってお金を捻出するようなことを話していました。いずれにせよ私には関係のないことです。

先のことは分かりません。なったらなった時に考える。先を考えても意味はない。怖くなるだけ。今を楽しく生きることだけ考えよう。体が不自由になったら施設に入居して過ごすだけの生活になります。そうならないよう、日々健康に気を付けてストレスを溜めず健全な暮らしをするだけです。

先週、父の尿カテーテル交換の付き添いで病院に行ったのですが、よたよたの高齢女性が、車いすの高齢女性を押していました。姉妹か親子かわかりませんが、車いすの女性の方が若く見えたので、もしかしたら母親が娘さんの車いすを押しているのかも知れないと思いました。

車いすのストッパーを引く力がないのか固定しないまま不安定な車いすから降りようとする女性。手伝おうかとも思いましたが、コロナ禍の今、下手に手を出すのも憚れて躊躇してしまいます。容易に手助けもできない世の中になってしまいました。

かなり四苦八苦したあげく、その女性は車いすから転落してしまいました。思わず駆け寄りましたが、手助けした結果万が一怪我を負わせても大変です。かなり体格のいい方だったので、こっちがぎっくり腰になっても大変です。ここは人を呼んで助けてもらいます。病院のスタッフが助けてくれたので良かったです。

車いすを押していた高齢女性も粗い息で「しんどい」を連呼。どっちが患者でどっちが介護者だか分からない状態の老々介護。見ていて気の毒に思いますが、自分の30年後を見ているようで気が滅入ってしまいました。

最近81才の夫が79才の妻を海に突き落とした事件がありました。40年もの長い間介護をしていたと記事で読んで何とも言えない気持ちになりました。もし私が介護される側だったとしたら思うことは何だろう。介護する側だったらどうか?申し訳ないけど施設に入れる選択をすると思います。自分で介護するのは無理です。

介護するほう、されるほう、どちらも辛い。自殺がいけないのは分かるけど、ある程度年齢を重ねたら自分の生死を選択できるような世界がくればいいのに。例えばですけど、年齢80才以上で自力生活困難者、介護がないと生きることが困難であること、家族全員の同意があることなどを条件に自ら死を選択できる制度ができるといいな。

余命宣告せれればホスピスで余生を過ごせるけど、余命宣告される人はそう多くない。殆どの人はいつ死ぬかなんて予測できないわけです。寝たきりのまま死ぬのを待つより自分の意思で決めたい。

尊厳死とともに安楽死が選択できるといい。それは自殺とは区別されるべき、と私は思います。回復は見込めず、誰かの世話なしでは生きられない、食べることもできず、点滴と管に繋がれ一日中ベットで痛さに耐える生活だとしたら、ラクになりたい、苦しみから解放されたいと願うことは悪いことと言えるでしょうか。

両親も父が障害手帳を持つ(軽度)障害者、母が介護者の老々介護です。ですが、老人ホームに入ることなく家で過ごしています。父は動きが超ゆっくりですが自分のことは自分でやれますし、年相応の認知機能低下の症状はありますが、今のところ徘徊や狂暴化の兆候は見られません。寝たきりにならないよう、脚力を鍛えるため兄からプレゼントされたショップジャパンのナイスデイで毎日足踏み運動をしています。

父は家で好きに過ごせる幸せを感じているようです。父からは”人生これから!まだまだ生きたい”という生命力を感じます。生きることに貪欲な父。父を看取るまで死ねないと気張る母。理想のジジババです。

時々思い通りにいかなくて癇癪を起しますが、それも人生。年を重ねると気が短くなるのです。私も最近実感しています。最近ストレス多めです。穏やかに過ごしたい。

そうそう、祖母の四十九日法要が終わりました。彷徨っていた魂がやっと極楽浄土へ行ったそうです。ホンマカイナ。次は百箇日だそうです。もう極楽にいるならこれ以上拝むことないんじゃないの、って思っちゃう。結局法要の度にお布施でしょ。色んな名目で金取るのね。こんなこと言うと罰当たりかな。

法要の後のお食事会に天使たち(姪っ子とその子供達)が来ました。葬儀の時は”誰?”みたいな目で見られましたが、今回子供たちと会うのは二回めなので何とか”知っている顔”として認識されたようで、子供達と触れ合うことができました。小学一年生の長男はかわいいの絶頂期で私の癒しです。一番下の子は2歳でぷくぷくで思わず頬ずりしたくなります。

子供たちが希望を持てるような、子育て奮闘中の姪っ子世代に是非お金を使って欲しい、切に願います。若いって素晴らしい。

お読みいただきありがとうございました。