父は4人姉弟ですが、姉(伯母)と妹(叔母)は亡くなっていて、末っ子の弟(叔父)だけが関西(神戸)にいます。その叔父が最近亡くなったと連絡があったそうです。それが、亡くなったのは先月末だったそうです。母が”悲しい”、とぼやいていました。
亡くなったことがそんなに悲しいのか…、と母に聞くと、勿論亡くなった悲しみもあるけど、連絡が2週間以上たってからだったことが悲しいのだそうです。
近親者だけで葬儀をやって落ち着いたから連絡したのでは?と言うと、それにしたって実の兄に葬儀の連絡をしないのは身内としてどうなの?という悲しい気持ちなのだそうです。
母はそういう意見ですが、父はどう思っているのでしょうか、母と同じように不義理な弟だと思うのでしょうか…。私にはそう思えません。
訃報を聞いて葬儀の連絡を受けたとして、葬儀に参列できるならまだしも、父も母も今の健康状態では遠方である関西へ行くことは現実問題無理なわけで、香典を送るくらいしかできないと思います。
誰からも香典を受け取らない、葬儀は誰にも連絡不要、という叔父本人の意思だったようなので、ならば事後報告でも良いのでは?と私は思ってしまいます。
母が一番腑に落ちないのは連絡不要な理由が「迷惑をかけるから」だそうで、それを聞いた母が、弟の訃報が迷惑だなんてあるはずがない、身内としてそんなこと言われて悲しい、と言うことのようです。
実兄である父にまで連絡しないというのはいかがなものか…、身内は別でしょう、と言うのが母の意見。私は母とは違う意見です。叔父には父を煩わせたくない、という気持ちがあったのではないでしょうか。
父がかなりヨボヨボなことも知っていたでしょうし頻繁に連絡を取り合うような兄弟でもなかったですし、何より先に逝くことが本意でなく、父を悲しませるかも、だったら知らせないほうがいいと気を使ったのかな、と私は勝手に思いました。私が感じるのは叔父は父のことが大好きだったということです。
4才年上の伯母、父(長男)、4才年下の叔母、さらに4才年下の叔父、あしかけ16年かけて4人を生んだ父方の祖母は私が生まれる前に病気(多分癌でしょう)で亡くなっています。因みに私の名前は父方の祖母の名前に”子”を付けたそうです。
花子とアンの村岡花子さんのように、”はな”じゃなくて”はなこ”と呼んでください、みたいな当時の流行りネーム。昭和時代”○○子”はまだ多数派だったような気がします。今はきらきらネーム時代、まず読むことが難しい。当て字も多いですし性別判断も微妙な名前が多くなりました。現在では”○○子”は珍しい名前なのかも知れません。
あまり父方の親戚関係の話を書くことがなかったので、今回は父方の身内について少し書き残そうと思います。結婚するとどうしても母方の親戚筋の方が近い存在になるもので、生家もそんな感じです。ただ子供の頃は東京と茨城(父の実家)というかなり近い距離だったので、父方の親戚とも会う機会は多くあったような気がします。
母が長男の嫁としての義務を果たしていた、とも言えるでしょう。父は仕事の忙しさにかまけて全部母に任せっきりでしたから、母一人で夫の実家へ子供達四人引き連れて行くのは大変な苦労だったと思います。
彼岸や盆に日帰りでよく茨城の父の実家へ行っていました。祖父は小さなお好み焼き屋さんを一人で営業していました。目的は墓参りだったのでしょうが、子供の頃はじいちゃんのお好み焼きを食べに行く認識しかなかったと思います。
祖父のお好み焼き屋はかなりボロい掘っ立て小屋で鉄板や机椅子も全部じいちゃんの手作り。5~6人座れる鉄板を兼ねたテーブルが2台、10人入ると満席になるくらいの赤い暖簾か目印の小さな店でした。
今考えると飲食店登録とかしてたのか怪しい、もしかして無許可営業だったのでは?なんて思ってしまうほど、衛生管理は絶対アウトな感じでした。色っぽい水着のポスターとかいっぱい貼ってましたし。地元のヤンキーの溜まり場みたいな感じでした。
お好み焼きは自分で焼くタイプ。小さなお椀に薄力粉と水だけの生地と、ざく切りキャベツ、天かすが基本で、乾燥イカや乾燥小エビ、紅ショウガや魚肉ソーセージなど好きな具をチョイスして1つ100円~200円くらいだったような。卵を入れると30円追加とか…。夏には、かき氷もありました。透明なお皿にかき氷機のハンドルを自分で回して削ってシロップをかけるだけ。値段は50円くらいだったかな?
お好み焼きはお金払って食べたことないから正確な値段は覚えていませんけど、私が行くと決まって全部トッピング卵入りのメニューにない身内スペシャルを出してくれました。
自分で焼くのがまた楽しくて…。残念ながらお店はじいちゃんが亡くなって継ぐ人がおらず取り壊しになりました。惜しいけど吹けば飛ぶようなお店でしたから仕方ないです。
じいちゃんの店に通っていたのは小学生まで、中学生になり部活で忙しくなってからは一度も行っていないような気がします。高校からは東京を離れ母方の祖母の家で暮らすようになったので、じいちゃんに会ったのは小学生の時が最後だったと思います。
じいちゃんが亡くなったのは私が高校生の頃だったかな?母から聞いた話ですが、じいちゃんはボケて病院で看護婦さんに暴力振るったり老人性痴呆による凶暴化で結構大変だったそうです。母のことも「オイ。そこのねーちゃん」と呼んでいたそうな…。私はお好み焼きを焼く優しいじいちゃんの思い出しかありません。じいちゃんのお好み焼きが大好きだったので今でも家で作っっています。
トッピングはネギと紅ショウガと乾燥小エビにスライスしたお餅を入れたりしています。山芋や豚肉は入れません。関西の人からすれば邪道なのでしょうけど私にとってのお好み焼きは”じいちゃんの味”なのです。
じいちゃんのお好み焼き屋さんはまさに、”ザ・昭和”の風景。懐かしい。初めて友達と千房に行ったときは「こんなの、お好み焼きじゃない!」ってカルチャーショックでしたね。私にとっては”じいちゃんのお好み焼き”が全てでしたから…。値段も桁違いでビックリ。お好み焼き一つで1000円越えってマジか!って驚いてしまいました。
大人になって、じいちゃんのお好み焼きはまったく違う食べ物だ、と認識するようになりました。何といってもじいちゃんの店では500円もあればお好み焼き2種類と焼きそばとかき氷まで食べられましたから…。そういえばあの頃はまだワンコインではなかったな。500円玉を初めて見たのは忘れもしない小学校の卒業式。自慢げに披露した子がいたので覚えています。
祖父がそんな感じで薄利商売をしていたので父は貧乏育ち。自分の大学費用は勿論、末っ子の叔父の大学費用も父が親代わりで払ったそうです。
父が死んだら唯一知らせてほしいと願った弟。その弟が亡くなったという連絡は、父にはかなりショックだったようです。まさか8才も年下の弟が先に逝くとは思ってなかったのでしょう。
父が今年で87才になるので、父より8つ年下の叔父は79才、数年前、父と同じ大腸癌で手術したということは聞いていましたが、その後転移が見つかり最後は自宅で過ごしたみたいです。
亡くなる一週間くらい前から食べることができなくなり入院、最後まで意識はしっかりあり、死の直前まで会話ができ意思疎通できていたようです。母が入院したじいちゃんの見舞いに行った時はボケが進行して誰も認識できなかったようなので、最後まで意識がしっかりしていたというのはある意味看取る側も幸せなことだと思います。
虫の知らせ、だったのかな…、と母がしんみり。つい最近叔父の話をしたばっかりだったそうです。「音沙汰ないけど元気なの?たった一人の弟でしょ」「便りがないのが良い便りなんじゃない?」そんな会話の数日後に届いた訃報。不思議です。
叔父は関西が拠点で家を構えていたので、墓参りで祖父の家を訪ねた時も叔父と会うことはありませんでした。伯母夫婦は祖父の隣に居を構えていたし、叔母は東京住まいだったため、頻繁に会う機会はありました。でも関西住まいの叔父とは一度も会ったことがありませんでした。
やっと会う機会に恵まれたのは数年前(手帳を確認すると2014年、9年前でした)伯母の一周忌の法事で始めて会いました。癌の手術から抗がん剤治療などで闘病生活をしていて体力も落ちていたので遠出は無理では?と思ったのですが神戸の叔父が参列すると聞いた父が一念発起、法事に参列することを決めたのです。母も私も驚きました。法事に行くことを決意したのは、この先そんなに長く生きないだろう、死ぬ前に弟に会っておきたいと思ったからかも知れません。
法事には母が同行する予定でしたが気が張っていたのか緊張からくるストレスなのか理由は分かりませんが直前に帯状疱疹になってしまったのです。父は一人でも大丈夫と言いましたが、さすがに一人で行かせるのは心配なので急遽母の代理で私が同行することになったのです。
そして初めて叔父と対面を果たしました。少し背を小さくしたミニチュアの父です。似てるよ、ソックリだよ、と母から聞いてはいましたが、こんなに似てるとは!瓜二つ、想像以上にソックリでビックリしました。初めて会った気がしない親近感。年賀状でしかやり取りがなかった叔父。結婚した時にお祝いを送ってくれていたので直接お礼が言えて嬉しかったな。父はあまり口数が多い方ではありませんが、弟に会えて心なしか興奮しているようにも見えました。積もる話があったのでしょう、二人で談笑していたことを思い出します。
従兄弟たちとも何十年かぶりで再会できて色々な話ができて行って良かった、と思いました。法事って親戚一同が久々に集う、そういう機会なのかも知れませんね。伯母が作ってくれた最後の機会だったのかも知れません。
法事の時の父は78才、叔父が70才、その時叔父は大病もなく健康そのものでしたから人の生死は分からないものです。あれから9年か…
神戸の叔父が亡くなった一連の話を夫にすると一言「あなたの身内は変わってるね」と言われました。父方の身内は特に、夫の言う通り確かに変わっているかも知れません。母も嘆いてましたから…。でも叔母さんも叔父の遺言にかなり悩んだだろうな、と思います。父も叔父も、世間一般の常識とはかけ離れた”変わり者”なのかも知れません。
そんな”変わり者”な父の血が私の中にも半分流れているわけで、そう考えると私もかなりの”変わり者”なのだと思います。母もかなり変わり者の父と結婚したのだから、同じ変わり者に嫁いだ義妹の気持ちを理解できないでもないと思うのですが…。伴侶が変わり者だと苦労するわけですね。夫が気の毒だわ。
話は変わりますが、父も神戸の叔父も家を継ぐ人がおらず家系が途絶えます。生家は私の兄が一応家系を継いではいますが兄夫婦には子供がいないので兄の代で終わり。神戸の叔父は二人の娘が嫁いでいるのでそこで終わり。父は代々の墓を兄に残すのは気の毒に思い自分の代で墓じまいしました。
生家は途絶えますが父も母も何も言いません。これも時代の流れなのでしょう。旧家や名家だと跡継ぎ問題があるようですが一般ピーポーの我が家には関係のない話です。血筋なんてどーだっていい。簡単な家で良かった。嫁いだ先では色々ありますが、それはそれ。嫁としてできることがあれば頑張ります。
父方も母方も癌家系なので、癌リスクは高いし、じいちゃんはボケたし、体に組み込まれた遺伝子からは免れられないでしょうけど、先祖代々の家とか墓とか跡継ぎとか、もういい加減なくしてしまえばいいのに、って思います。家督を継ぐとか家の存続とか正直どうだっていい。
私は死に目に誰かに側にいてほしいとは思わないし、死に顔も見られたくない。最後はひっそり一人で静かに逝きたい。誰にも知らせてほしくないし、葬式もしてほしくない。所詮人は一人で死ぬのですから。だから叔父の気持ちがよくわかる。やっぱり変わってるのかな…。母は子供達に看取られたいそうです。
長く生きると親しい人の死は避けられない、辛いことも多そうですね…。父の背中が少し寂しそうに見えました。まさか平均寿命を越えて叔父さんより長生きするとは驚きです。癌を切除後5年過ぎれば再発はないと世間では言われていますが、それを実証している父です。癌摘出手術から今年で15年目になります。
癌は5年生存率60%と言われています。義姉は5年目の検査で腫瘍マーカーの数値が上がり子宮全摘になりました。最後まで妊娠を諦めていなかった義姉は再発に相当ショックだったと思います。命か子供か、そんな選択をしたと思うと辛かっただろうな。まるで”グレースの履歴”の美奈子さんみたい…。滅多に会うことはない義姉ですが大好きです。兄の幸せは義姉のおかげです。感謝。
変わっているかも知れませんが、本人の希望を叶えてあげることが一番いいのかな、と私は感じます。
お読みいただきありがとうございました。